府中市の歴史
- 位置と地形
- 府中に国府が置かれる
- 大国魂神社の起源
- 高安寺
- 中世の府中
- 近世前期の府中
- 近世後期の府中
- 明治期の府中
- 大正・昭和初期の府中
参考文献
- 位置と地形
- 府中市は広大な武蔵野の台地の南端(地図)に位置し、副都心新宿から西方約22kmの距離にあります。面積は約29.34km2、東西約8.75km、南北約6.70km、多摩川を南境として、その南(多摩市、日野市、稲城市)には一段高い多摩丘陵が西から東へ多摩川に沿うようにつらなっています。多摩川から北へ約1.7kmにわたって平坦地が広がり、これより東西に走る高さ約6〜7mの崖線から北へ約2.5kmにわたって立川段丘が広がっています。この段丘は西端で海抜70m、東端が海抜40mで、市内で最も高いところは武蔵台3丁目で海抜82mです。
- 府中に国府が置かれる
- 西暦645年、中大兄(なかのおおえ)皇子を中心とした人々は蘇我氏を打倒し、天皇を中心とする中央集権的な国家を樹立した大化の改新により武蔵国(今の東京都・埼玉、神奈川県東部に広がる地域)の国府が置かれ、早くから政治、経済、文化の中心地として栄えてきました。鎌倉時代末期は合戦の舞台となり、江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、明治以降は郡役所が置かれるなど、多摩地域の中心として歴史的役割を担ってきました
- 国府
中央から国司とよばれる地方官が各国に派遣され、国司の下で国を統治していました。国を統治する役所を国庁とよび、国庁の所在地が国府です。なお、国庁が今の府中のどこにあったか調査が行われていますが、1)御殿地(府中本町東側の台地) 2)坪宮(市立第3小付近)、3)京所(大国魂神社境内) 4)高安寺 5)高倉(分倍河原駅西側の台地)が出土品から推定されていますが決定的な根拠が有りません。
- 昭和29年4月、府中町、多磨村及び西府村の1町2村が合併し、人口約5万人の府中市が発足してから40数年が過ぎ、現在では、人口22万人を擁する首都東京の近郊都市として発展を続けています。
- 大国魂神社の起源
- 武蔵国には44の神社がまつられていましたが、国司が国内の諸社の巡拝する労を省略するため、国内の諸
神社の祭神を一ヶ所に合祀した惣社(そうしゃ)と、主な6つの神社:一之宮(多摩市の小野神社)、二之宮(あきる野市の小野神社)、三之宮(埼玉県大宮市の氷川神社)、四之宮(埼玉県秩父市の秩父神社)、五之宮(埼玉県神川村の金鑽神社(かなさな))から六之宮(横浜市の杉山神社)までの国内の有力な六神社を一ヶ所にまつられる(合祀)になり、これを六所宮とよばれました。いつごろ造られたか記録が無いため明らかで無く、平安時代後期(1009年)の平時範の日記「時範記」に惣社、六所宮は鎌倉時代の「吾妻鏡」であるといわれることから、惣社は平安時代の中期、六所宮は平安時代末期ごろに成立したいと考えられています。中世においては、広く関東一円の信仰をあつめ、特に武士の間で厚く崇敬され、周辺の人々の経済的な中心地でもありました。
- 大国魂神社は、中殿に大国魂大神、御霊大神、国内諸神、そして東西両殿に一之宮小野神社、二之宮小川神社、三之宮氷川神社、四之宮秩父神社、五之宮金鑽神社、六之宮杉山神社の六社の祭神を合祀しています。
- 高安寺
- 10世紀に入ると、律令制度も次第に乱れ、地方の豪族同士の武力による争いが頻発するようになりました。
平将門(まさかど)が一族との間で各地で争乱を繰り返していたころ、武蔵国内でも在地土豪と国司との間で衝突が起こっていましが、将門はこの紛争に介入を行い和解にこぎつけました。このころが将門の絶頂期でしたが、藤原秀郷(ひでさと)との戦いに敗れ戦死しました。片町二丁目の高安寺は藤原秀郷が武蔵守であったときの館跡と伝えられ、のちに、足利尊氏が中興し、尊氏中興開基の寺として、歴代公家が北関東・東北方面の征伐におもむくときに、高安寺を陣所に定め、ここから度々出立していました。現在も寺の境内南端にかすかに残る空濠は当時の旧跡といわれてます。
- 中世の府中
- 1180年8月、平家打倒のため源頼朝は武士団を組織して、鎌倉に本拠を定め関東の支配者の地位を確立しました。頼朝はその後、平家の追討は木曽義仲らにまかせ、自らは鎌倉で東国新政権の地固めに専念しました。頼朝は平家打倒後の1185年全国に守護、地頭を設置し、1192年には征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が誕生しました。頼朝は武蔵国の国守に頼朝の重臣平賀義信を推挙し武蔵の国務を委ねました。鎌倉が政治の中心となると、各地と鎌倉を結ぶ道路が出来、現在、鎌倉街道と呼ばれています。
- 鎌倉街道 : 現在一般に鎌倉街道とよばれているのは、関戸橋で多摩川を渡り、中河原を
経、分倍の光明院前で右折、南武線を越えたところの府中街道から国分寺に方面に向かう道をさしています。また、地元では、関戸・中河原・分倍と北上しそのまま直進し東芝町を経て国分寺に抜ける道筋を古来の鎌倉街道と言い伝えられています。
左図は現在の中河駅(手前)から関戸橋をみた鎌倉街道(H14-1-12)
- 分倍河原の合戦
13世紀の後半、ご家人たちは経済的に窮乏し、北条一門の幕政の専制に対し、次第に反幕の機運が高まっていました。この形勢に乗じ、天皇親政を目指した後醍醐天皇の鎌倉幕府討滅の挙兵に、足利尊氏、新田義
貞らのご家人中の有力武士の多くが加担したため、1333年幕府は滅亡しました。このように分倍河原の合戦は新田義貞軍と幕府軍が幕府の命運をかけて戦った古戦場で、日本の歴史に大きく影響をおよぼす戦いでした。この分倍河原の地は、大正8年10月、東京都の旧跡に指定されました。現在、付近一帯は住宅地となり、古戦場の面影がありませんが、昭和10年、地元の有志によって分倍河原古戦場の碑(分梅町二丁目)が建てられています。
左図は分倍河原駅南口ロータリ;新田義貞像(H14-2-12)
- 人見原の合戦
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は「建武の中興」と呼ばれる新政を開いた。この政治は武士層の動向を無視したため、不満を持った武士層の後押しで足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光明天皇を皇位につけ(北朝)、みずから幕府を開き、約60年間にわたり、吉野(奈良県)にのがれた南朝と対立抗争する南北時代に突入しました。北朝内でも、足利氏一門の内部争いが激しくなり、新田勢と足利尊氏との、南北朝動乱の動向に大きな意味を持った戦いが人見原の合戦(若松町浅間山一帯)で、新田勢を駆逐しました。
- 近世前期の府中
- 家康と六所宮
1590年、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏滅亡後、8月1日徳川家康が関東に入り江戸を本城としました。これを江戸御打入りとよばれています。六所宮は関ヶ原合戦の家康の戦勝を日夜祈願を行い、戦後、この祈願成就の功により、二条の馬場とけやきの苗が補植されたといわれ、これが現在の馬場大門けやき並木です。また、府中は放鷹(ほうよう)を通じて家康と関係深い土地でもありました。
古くから旧暦の8月朔日(ついたち)は秋の収穫を祈る八朔(はっさく)の祭りが行われていましたが、家康の江戸御打入りを記念し、八朔の行事は盛大に行われました。毎年8月1日には八朔の角力(すもう)が行われ、現在も多数の素人の力士が力をきそいあい観客を楽しませています。
- 宿場町府中
江戸幕府の交通網の中心は、東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥羽道中の五街道です。この五街道のひとつ甲州道中は江戸と甲府つなぐ幹線道路で、府中宿は八王子横山宿の34軒につぎ、29軒の旅籠(はたご)をもつ大きな宿場町でありました。府中宿は府中本町、馬場宿、新宿の三町で形成されていました。
本町は小田原道にそった町で、甲州道中に沿っていない本町一〜二丁目を中心に一部宮西町の地区を含む町。馬場町はけやき並木から甲州道中沿いの宮西町二・四・五を中心とした町。新宿町は馬場町の反対側、けやき並木の甲州道中ぞいの宮西一〜二丁目の町。
- 近世後期の府中
- 六所宮社領
家康が江戸御打入りした翌年1591年、社領として500石の地を寄進されました。当時として武蔵国内では最大級のもので、現在の八幡町、緑町、宮町二〜三丁目、日吉町の一部の地域があたります。
- くらやみ祭り
3月30日の春期臨時祭、6月20日の李子(すんも)祭り、7月7日の帷子(かたびら)祭り、8月1日の八朔角力など年中通して多くの神事、祭礼が行われ、その中心となっていたのが5月5日のくらやみ祭りです。4月30日、舟で羽田空港沖の品川海上での禊祓(みそぎはらえ)にはじまり、5月2日の御鏡磨(みかがみすり)神事、5月3日の競馬式(こまくらべ)を経て、5日夜の八基の御輿の渡御(とぎょ)をメインイベントとし、翌日の御田植神事で終了します。5月5日の御輿の渡御は昭和34年以前は午後10〜11時ころ行われていましたが、現在は午後4時に行われています。一之宮から六之宮、そしてご本殿の順に7基の御輿が神社の神幸門を出て参道を北上、灯火を消した暗黒の道を甲州道中を西に進み御旅所(宮西町5丁目の角)に入ります。これとは別に御霊(ごりょう)宮の御輿1基が随神(ずいしん)門から西にへ進み、御旅所の東門から入って7基の御輿に合流します。そして寅の上刻(午前3時過ぎ)太鼓を合図に御旅所を出発、出御と同じコースをたどり、こんどはいっせいに灯火をともし昼のように明るい宿中を通り、神社へ還御します。このように、8基の御輿がすべての灯火を消した暗闇の中を渡御するため「くらやみ祭り」よ呼ばれ各地から集まった群衆でうまっていました。
- 変貌する村々
18世紀前半の人々の生活は質素にして、家造りは大風を恐れて低く、天井の有る家は希で、床も竹の簀(す)の子にワラを敷いたくらいでありました。ところが、18世紀後半ころから人々の生活も変貌し、天井の無い家は少なく、床も磨き板を用いるようになりました。食事も身分や財力に応じた米・麦・粟などを用い、野菜はけっして用いなかったが、八百屋が出来、いずれの貧家でも相応の料理をするようになり、農民の生活は向上しました。
- 増大する農民格差と武州世直し一揆
農村に商品経済が浸透し、農民が年貢である米をつくるだけでなく、市場で換金出来る商品をつくる生産者として、農作の間に、商人、職人として経済活動を行うようになると、貧富の差が現れてきました。土地を集めて地主化する者と、貧窮化して田畑を手放し小作人となる者が現れ、農村に上下に階層化するようになりました。江戸時代も後期になると、村落社会が変質して幕府の支配体制に破綻を見せ始めました。慶応期(1865〜68)に入ると第二次長州戦争、これに不作が加わり、国内経済は混乱し物価高が人々の生活を圧迫しました。この生活苦に原因する武州世直し一揆が今の埼玉県入間郡から始まりましが、府中市域には直接波及することなく終わりました。
- 明治期の府中
- 神奈川県下に編入
戊辰(ぼしん)戦争によって出来た維新政府は政体書を公布し、旧幕府領には府と県が置かれ、府中市域、多摩地域が神奈川県に編入されました。以後、明治26年4月に東京府に編入されるまで22年間、神奈川県の一部を構成していました。
- 六所宮の神仏分離
明治維新は王政復古というかたちをとって実現すると、新政府は「太政官達(だじょうかんたつし)」として古代以来の長い伝統をもつ神仏混淆(こんこう)を禁止しました。長い間僧侶の下位に置かれ不満を持っていた神官の憤りが爆発し、各地で仏像、仏具の破壊、僧侶への迫害が行われました。当時の六所宮も神仏混淆でしたが、幕末期の神主猿渡容盛(さわたりひろもり)は平田派国学に影響を受け、早くから神仏分離が重要なことを主張し、内々で祭式の改革を進めていたため、神仏分離は混乱無く行われました。
- 大正・昭和初期の府中
- 鉄道の発展
明治末期から昭和にかけての約30年間は、鉄道をはじめとするおもな施設がつぎつぎと設けられ、現在の府中の枠組みが出来上がってきた時期でした。第一次世界大戦を契機に急速に発展し、産業の構造面においても農業に対して工業の優位を決定的なものにしました。府中市域に直接関係する最初の鉄道は明治43年6月国分寺〜下河原(南町5丁目)間に開通した東京砂利鉄道(のちの国鉄下河原線)です。鉄道の名の通り、多摩川の砂利運搬を目的に敷設されたましたが、後、客車の運転も行われ、武蔵野線の開通と共に昭和51年廃線となりました。
次に、大正5年10月新宿〜府中間に京王電気軌道が開通しました。なお、府中から西は玉南電気鉄道という別会社の鉄道の敷設が行われ、大正14年3月府中〜東八王子が開通、その後、両会社は合併して昭和3年5月に新宿〜東八王子間が開通し、現在の京王線が完成しました。
大正11年6月、武蔵境〜是政間が開通した多摩鉄道も多摩川の砂利採取と運搬を主目的でしたが、昭和2年4月西部鉄道に買収され、現在の西部多摩川線と改称されました。南武鉄道も当初は多摩川の砂利採取、運搬を主目的として川崎〜大丸(稲城市)の敷設が計画されましたが、青梅地方の石灰石を立川経由で川崎の工場へ運搬したいという浅野セメントの要望もあり、立川まで延長され、昭和4年12月全線開通し、昭和19年国有鉄道となり現在に至ってます。
- 三多摩農民組合と矢部甚五(じんご)
大正10年10月、不作のため小作料の減免を矢部甚五を代表として地主に求めた小作争議が起き、同年12月三多摩地区における最初の府中町多磨小作組合が結成されました。この組合は、農事の改良・発達、地主と小作人の協調を主眼に小作条件の当不当を審議し、その改善をはかり、生活の安定を期することを目的としてました。この小作組合結成の影響は大きく、その後、北多摩郡(保谷市)、中神村(昭島市)、南多摩郡(八王子市)、多摩村(多摩市)にあいついで農民組合が結成され、大正15年にこれらが合同した三多摩農民組合が結成されました。三多摩農民組合は会長に矢部甚五を選び、その後、東京競馬場の誘致に伴う、小作地を失う補償問題に尽力しましたが、実現しないまま昭和4年12月47歳の若さで急逝しました。農民組合員と友人同志により、本町の安養寺境内に記念碑が建っています
参考文献:文一総合出版 わが町の歴史・府中 遠藤吉次
凸版印刷 府中の地理ガイドブック 東京都府中
光村教育図書株式会社 くらやみ祭り 猿渡盛文/綾部好男